必死になる

自分の子どもがまだ幼かった頃、私には特技があった。

それは、子どものおでこに手を当て、体温を正確に言い当てることだ。

38.4度のように小数第1位まで、電子体温計よりも速く、正確に言い当てることができた。

言い当てる度に、毎回、旦那が驚愕していた。

うちの長男は、幼稚園に入る頃までしょっちゅう熱を出していた。

体温の読み違いが予後を左右する、という状態が続いたこともある。

そのため、体温計が「ピピッ」と鳴るまでがもどかしかったのか、自然と身についてしまった。

さて、子供たちも大きくなり、おでこに手を当てるなどということはなくなっていった。

それと同時に体温も言い当てられなくなった。

どうも私の特技は必要に迫られ、必死だったから得られたものだったようだ。

だから必要がなくなった現在ではその力もなくなってしまった。

考えてみれば、その時その時で必要なことは必死にならざるを得ず、そうすると、その時に必要な力が自分に身についてきたように思う。

ということは、「子供たちが『学習すること』に必死になれば、それに関係する力は自ずとついてくる」ということになる。

確かに生徒たちを見ていればその通りだと思う。

そうすると、力がつかないのは「何とかできるようになろう」「わかるようになろう」という必死さが足りないということになるのではないか。

聖書の言葉にも「求めよ。さらば与えられん」とあるではないか。きっとそれは真実なのだと思う。

ならば、「できないから」「わからないから」と言い訳して逃げるのではなく、「できるようになるまで」「わかるようになるまで」やるぞ!という気持ちで必死に取り組めば、少しずつでもできるようになるはずだ。

いや、きっとなる。私たちはそういう姿をいくつも目撃してきている。

だから、それを信じて必死で進もう。

ちなみに最近、食生活の改善に必死になった私は、食べ物を手にのせて70g,100g,150gなどを正確に量れるようになった。